推敲・査読・校閲について考える。 組版よもやま話(その11)

 最近は尾道関連の遊ぶ事ばかり書いていた「 window tribe 」です。

 そろそろ仕事に戻って、今回は原稿が生まれてから印刷用の版になる手前までの作業の流れで出てくる「用語」を私の視点で気難しく耳障りの良くない事を真面目に書きます。


推 敲

 「推敲(すいこう)」という言葉があります。大学などでレポートを「よく推敲して提出するように」とかいった使われ方をするようです。

 意味は自分で執筆した文章を手に取って、

・文意が伝わらない所や重複した表現がないか、
・事実と相違ないか、矛盾していないか、
・差別的や不適当な表現が無いか、
・図表と本文の整合性が取れて数値が正しいか、

などの視点で読者にとって意図がキチンと伝わるのかをじっくりと何度も読み返して、問題がある所や、よりベターな表現があれば修正して完成度を高めていくことと認識しています。

 そのためには「読む対象」が研究紀要などのようにアカデミックな議論をしあう、内容が分かった方々がターゲットでは「格調」が重視されますし、はたまた新たな知識を得ようとしている初心者が読者ターゲットの場合には、執筆者は自分では内容は分かっているので無意識に専門的な用語や業界用語を使ってしまいますが、目線を自分が駆け出しだった頃に下げてみる観点も必要と思います。


 恥ずかしながら「推敲」は原稿に関する事なので「推稿」と書くのだと思っていました。その正しい文字からはどういう意味なのかイメージ出来ませんでしたので、いつもお世話になっているWiki先生に尋ねて、かいつまんで言うと・・・・・

 唐の時代に詩人のカトウさんが漢詩を作るにあたって、「門を推す(おす)」と表現するのが良いか、「門を敲く(たたく)」方が良いか中々決める事が出来ず、乗っていたロバの手綱をとるのも忘れて、推す手ぶり、敲く手ぶりをして考えながら(今でいうと立派な「ながらスマホ運転」です)進んでいると、カンユ知事の行列に突っ込んで捕らえられましたが、事情を話したところ漢詩の大家でもあるカンユ知事は「敲くが良かろう」と答えた故事からきているそうです。

 褒められた語源ではないようですが、これほどまでに一語一語を大切に考える姿勢は見習わないといけません。

 実際、私は今年からブログを書き出して、下書きを掲載ギリギリまで何回も何回も訂正しているのを社内でも怪訝に思われているようなのですが、浅学非才を頭隠して尻隠さずで悪あがきしている訳です。


査 読

 私どもの仕事では「研究論文」を手掛ける事も多いのですが、執筆者が大学の部局や所属学会に論文を投稿しますと、投稿者の所属・氏名を伏せた状態で編集委員やそれぞれの分野で秀でた査読委員(レフリー)の先生方が「査読(さどく)」と言って推敲と同様なチェックを投稿者以外の目で行います。

 「投稿規定」に則り体裁上の表面的な事柄から、学問の本質的な事まで吟味して、紀要・学会誌への掲載に相応しいかの可否が決められたりします。外国語の文章はネイティブの査読者に依頼する事もあるようです。

 レフリーから問題点の指摘を受けたりしたものを訂正して再提出し、基準を満たし掲載に駒を進めたりします。


校 正

 さて、「査読」を経た原稿は大学の部局や学会の担当者様より私どもに発注を頂き、お預かりした原稿・データをもとに、各部局・学会の仕様に沿った「組版」を行います。

 「原稿」という文字列に対して「組版」という作業でコマンドを入れることで1ページずつ書物としての新たな生命を吹き込むわけですが、この後に誤字脱字などの不備が無いか、要求に合致しているかの「校正」という確認作業を執筆者様・発注者様にしていただきます。各ページに図表の挿入箇所と、その関連事項が記された本文内容が近い位置になっているかなど組版してみないと分からない項目もあったりします。

 また、受注条件によってはお客様に見ていただく前に私どもの方で原稿と一字一句突き合せる内部校正、略して「内校」を行うケースもありますが、数十・数百ページにわたる校正を出した後に校正戻りで「これ、差し替え原稿ね」と渡されると凹む事もあります。

 年末になると年賀状シーズンとなり多くの方々が「印刷」とお近づき頂ける季節となりますが、とある文具店のレジ前で年賀状の注文を受ける際に店員さんがお客さんに「校正」とは何かの説明に時間を費やし、レジ待ちの行列になったのを見たことがあります。我々印刷に携わる人間は普通に使う「校正」という言葉も、世間では浸透はまだまだな様な気がしました。


校 閲

 推敲・査読・校正と用語が出て来ましたが、「校閲(こうえつ)」という言葉もあります。石原さとみ主演の「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」というドラマもあって脚光を浴びましたが、人様の書いた原稿などの誤りや不備な点などをしらべること言います。執筆者特有の表現で違和感のあるところを調べたりもします。
 このドラマでやっていた内容が世間で認識されている「校閲」とするならば、私のやっている事は「ままごと」でしかありませんが、少しでも疑問に思ったことは伺いを立てるようにしています。

 注意点として人名には留意しますが、よく言われているのは「渡辺のナベ」と「浜田のハマ」はバリエーションが多いので気を付けていますが、最近目立っているのが「裕・祐・佑のユウ」「キクチの地・池」などは留意が必要です。若い者には「一文字ずつ注意するんじゃあない、文字の一画ずつに注意しろ」と言っているのですが・・・・言っている本人が・・・・

 先だって有った事例で「キジも鳴かずばたれまい」の「」を鉄砲で撃つのだから「」じゃあないのかなぁとネット検索してみますと「打」を入れても「キジも鳴かずばたれまい」の方に導かれて、先様に「」じゃあないでしょうかと照会しましたら、「辞書で「」になっているのでそのままで」とのお返事を頂きました。それではと改めて天下の「広辞苑」で見ますと「」になっており、手軽なネット検索の盲点に陥るところでした。


 以前、まだ老眼に悩まなくても良かった時分に、3000ページに及ぶ市史を受注するにあたり「原稿に全て目を通し、印刷業者としてのコメントをつけよ」という条件で、私が「校閲のまね事」みたいな事をする機会を頂いたことが有ります。
 普通は誰に言っても尻込みすると思いますが、私どもの初代の社長が残した言葉に「可読性」と「正義(それは正しいのか?」というものがありまして、いかに読者が読み易いものを作るのかを語っておりましたが、私は「発注者・執筆者、ましてや自分の会社の味方でもなく、書物を必要とする読者の味方」と解釈しています。

 この言葉を胸に当たって砕けろのつもりで務めさせて頂き、本として仕上がった時には安堵とともにちょっと天狗になったりもしましたが、それは「人様の書かれた文章」を眺めた位でおこがましいことで、3000ページの本を書かれた執筆者・編集者の先生方がどれほどの書物・資料を見てこられたのかは、報道などでよくある大学の研究室の背後の書棚に並んだ本の多さで窺い知ることができ、尊敬の念を抱きます。


これらの作業を踏まえて

 乱暴に言うと、それぞれが誤りを正す行為ですが、執筆者が行うのが「推敲」、編集当事者が行うのが「査読」、第三者が行うのが「校閲」みたいな捉え方もできます。

 私もそれなりに長い間こういった仕事に携わってきて感じた事は、部局や学会の立ち上げ時にはリーダーシップをとられたその道のパイオニアのエネルギーや理念が溢れて勢いが感じられます。しかし世代を重ねますとそのエネルギーが次代に引き継がれ一層高まっていくケースがある反面、逆に薄まっていくケースも散見されるように感じます。そう、「一度途絶えた伝統・伝承は、余程の事がないと元には戻らない」かのように。

 それは「投稿規程」のなし崩し、査読後の論文の大幅訂正などの本来のルールの形骸化に始まり、徐々に投稿論文数の減少や発行部数・発行回数の減少などの形で顕在化してきます。当ブログの8回の時に触れた「剽窃(ひょうせつ)」の問題の時にも触れましたが、研究者モラルに抵触しかねないケースもチェックの形骸化で素通されるかもしれません。

 「投稿規程」のなし崩しは、規定ページ数のオーバー、それに伴い規定内に収めるために図表が読めるのかなと思えるくらいに小さくレイアウトされたりするケースや、逆に図表の文字が見出しの文字より大きいケースも見受けられます。また数字の全角・半角、見出しやインデントの扱いなどは執筆者の癖が原稿に現れたりします。

 研究紀要など複数の執筆者が投稿して一冊の本になるために統一感を持たせる意味でも「投稿規定」がありますが、校正の最終段階で編集委員さんが、全体を見て見出しをそろえたり、句読点の扱いや、欧文の大文字・小文字の扱いなどの手直しをされるご苦労もあったりします。

 これらは書物としての「格調」にも直結してきます。繰り返しになりますが、この小さな綻びから投稿数の減少→発行回数の減少へと進んでいく前兆段階のようにも見えます。


推敲を重ねる事の意義

 書物の編集後記を拝見していますと「査読の質」の向上や「アカデミックであるか」などの問題に言及されているケースも見受けられますが、それ以前に「投稿の質」も問われることでしょう。

 何故、このような耳障りの良くない事を書くのかといえば私の偏った見方かもしれませんが「形骸化→停滞→衰退」の兆候が見えてきだしたら、いち早く基本に立ち返ることにより、末永く繁栄していただきたいからです。
 昨今の世相では大袈裟ではありますが、綻びが報道される事態にでもなると収拾できないようになります。また研究論文以外にも学校の「学生募集要項」などを手掛ける事もあるのですが、ここでの間違いは「不利益を被った学生さんの一生を左右する事にもなりかねない」とも職場では言っております。


 大昔になりますが、尾道に白樺美術館の分館があった当時、志賀直哉だったと思うのですが、原稿用紙に書かれた直筆の原稿を目にしました。マス目とマス目の行間の余白部分にびっちり埋められた練り直した訂正書きが、私の中での「推敲」を意識した原点です。

 多忙な中での執筆で早く筆をおいて開放されたいとも思います。それでも時間いっぱい推敲を重ねてみると「注意一秒怪我一生」な一面もありますが、それよりも「客観視」しながら推敲するうちに、自分の書いたものが一層素晴らしくなるという楽しみが見つけ出せます。

 また、学校のテストが終わった後に、職員室に行って「解答を直したいんですけど」とは言えないのが本来の姿と思います。後手後手にならないように原稿を手放す前に今一度の振り返りを。


 私どもの二代目の社長の言葉の中に、「本当原稿は紙に書いてあるものではなく、先生方頭の中にある」と申しておりましたが、微力ながら「書く人の伝えたい」と「読む人の知りたい」の間を取り持てますように努力いたします。

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